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くるみクラブの誕生について

 

桑原寛樹先生(現在、くるみクラブ会長)が、1964年(昭和39年)に中央大学から「応用体育のラグビーを担当して欲しい」と言う要請を受けました。

当時の中央大学の「応用体育」は、学生が希望する種目を選択出来る事になっていました。

希望していたテニスやバスケットなどの抽選に外れた学生が、やむを得ず単位所得のために履修すると言うのが実態でした。おまけにラグビーは、キツイ・汚いというイメージがあります。みんな、ラグビーにいやいやながら回されてきたものでした。

しかし、嫌いなものを好きにしなければならないのがプロの教師、と桑原先生は考えます。形式的に行なうだけの誠意のない、相手の心に触れ合うことのない授業ではなく、ラグビーの楽しさ素晴らしさを、ぜひとも理解させたい、それが教師としての使命だ、と。

それには教師として、また人間としての力量が問われると考えた桑原先生は、彼らに全力でぶつかっていきます。

桑原先生がラグビーの授業で教えたかったことは、単なる技術ではありませんでした。ラグビーを通じて、団結してプレーする素晴らしさとか、仲間をカバーする心、といったものまで教えることでした。

そのためには、毎回の授業に工夫が必要でした。桑原先生は以下のような試みをしてみました。

まず、最初の時間に必ずやらせた事は、小グループ分けをし、そのグループを組む仲間の名前をお互いに覚えさせることから始まりました。

それは初対面の者同士が一歩近づくのに必要なことです。

次に、「みすをしなくてもいいぞ」と励ましました。その代わりに、ミスをしたら必ず相手の後ろに回って落ちたボールを拾いに行くことを徹底させました。ミスをしないということは、たとえ優秀な選手であっても難しいことです。しかしカバーにまわるということは、どんな初心者でも出来ます

これはラグビーにおいてだけでなく、人生において、とても大切なことです。

さらにラグビー以外の、ハンドボール・サッカー・バスケットなどを授業の中に取り入れました。桑原先生得意の「応用トレーニング」です。

学生達は、ラグビーの時間に他の種目が出来るなどとは考えても見なかったのでしょう。大好評でした。

サッカーが得意な者には「足を使ってボールを転がしてみろ」とか、バスケットボールが好きな者には「正面の相手をかわしてみろ」とか。ラグビーと関連付けて教えると、その後のプレーが格段に良くなりました

このように、桑原先生のラグビーは授業としてやるのですから、学生にちょっと努力して自己の怠け心に打ち勝ってグラウンドに出る克己の喜び、またお互いにカバーしあってチームプレーする醍醐味、そして何よりもスポーツの楽しさを味あわせていったのでした。

大会とか対外試合とかは関係ありませんでした。是が非でも優勝させなくてはならない役目を負った監督コーチの立場とはまったく違い、桑原先生自身が楽しんで伸び伸びとラグビーの指導が出来ました。

始めて授業としてのラグビーを教え、前期の授業が終わりに近づいていた初夏の頃、桑原先生はいつものように学生達とコーヒーを飲んで話をしていると話題は自然と夏休みの過ごし方になりました。

桑原先生は「夏休みにみんなで合宿に行かないか」と提案しました。あくまでも桑原先生の個人の提案であり、単位所得にも関係ないし、大学から費用が出るわけでもありません。さすがに学生たちも直ぐには返答できずに困っていたようです。

ところがフタを開けてみると30人が参加を希望してきました。

嬉しい悲鳴でした。慌てて30人が泊まれる1円でも安い宿を色々と調べ、北志賀高原・夜間瀬の旅館に泊まれることになり、夏合宿にゴーサインが出ました。

こうして1964年(昭和39年)の7月、1週間の合宿北志賀で始まりました。

学年末になって桑原先生は、「クラブチームを作ってラグビーを続けないか」と学生たちに呼びかけてみることにしました。

しかし、桑原先生の呼びかけより前に学生達の間で、すでにその声が上がっていました。

「このままラグビーから離れるのは淋しい気がする」
「授業だけの一年で終わるのは残念だ」
「もっと続けようじゃないか」


これらの声に、すでにその組織作りが始まっていました。

一年間ラグビーの授業をやって、夏合宿までやった訳ですから、そのまま終わりにするにはもったいない話だった訳です。

合宿に参加した学生や、以前桑原先生の授業を取っていたり噂を聞きつけた学生が、30人も集まったのです。

こうして、1965年(昭和40年)の春、30人が中心となって、ラグビーのクラブチームが歴史的第1歩を踏み出したのです。

注:以上の文章は、くるみ実る日(桑原寛樹著、中央大学出版)より抜粋しました。
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